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2010年11月

論理は学習されるか

先日の研究会でまた、本題とは違う話題が盛り上がった。
だいぶ前に書いて以来の、亀な問題だ。

論理は経験によって身につくのか?


生得的なもの一切なしで、論理的概念や推論規則が汎用学習装置によって習得可能か、ということだ。
もしそうでないなら、論理的概念は、あまたの概念とは区別された特別な位置にあることになる。
ここでの「学習」とは、行動主義的意味であり、入力と出力の比較的安定な関係がシフトすることである。

入力と出力の関係が論理的であることを達成すれば、学習したと言ってよいが、それは、装置が論理的に(法則に違反しないように)動いていることからは必然化されない。
なぜなら、入力が表すものと出力が表すもの、これらの content の関係が論理的かどうかを問うならば、それは概念間の問題であり、それを実装する(三人称的)記号システムの問題であるから、物理レベルで論理性が保たれていることからは結論が出せないのである。
例えるなら、完全に論理回路に従って動作しているコンピュータ上に論理的でない推論を表現することは可能である。

さらに、論理的概念について話したり、推論規則を自覚的に適用することは、入力と出力の関係が論理的であるという以上のことを要求する。
入力と出力が論理的であるように装置に学習させられたとしても、それは、どうしてそこからそのような論理自体の概念を得られるのかを説明しない。
これは、言語の行動主義的説明一般に通じるものがある。

装置の実現レベルの話も合わせると、3種類の異なる問いがあることになる。

1 動作機構が論理に違反している装置が入出力の反復によって論理に従うようになることは可能か
2 装置の入出力が表す内容が論理的関係を満たすように、入出力の反復によって装置が変化することは可能か
3 装置の入出力の反復によって、その入出力の規則性についての入力に対して装置が妥当な出力を返すようになることは可能か

そもそも 1 については、前提となっているところの、論理に違反している装置の存在があり得ないとみんな思っている。というか、そのような物理的存在はおよそあり得ないと思っている。よって問題外とされる。
2 については、可能だと思う。どの程度まで、とか、どのように、とかで、論者がわかれていると思うが、不可能とは言えないとたいてい認めるだろう。その意味でロックは正しい可能性が残る。でも、ほんとにすべてについて?ということで限界も示唆される。生得的なものを入れたほうが実装が楽なのも確か。
3 は難関である。正当化の問題とも関わるだろう。以前の記事で話題にした点もこれである。

昔から哲学者は、論理や数学についての命題はアプリオリの部類に入れている、つまり、経験によらないと言っている。しかし、経験によらないというのは、経験をしなくても持っている、という意味と、経験に応じて真偽が決まるものではない、という意味と、分けられる。

以前の記事では、社会文化的に還元できるかどうかを考えていた。これは学習できるの一種である。だが、学習は、文化的なものを学習するに限らない。単に物理世界に暮らすだけで学習されることもある。上記のように論理的関係は物理世界に実現されているなら、それだけで(他の人と一緒に暮らさなくても)論理的反応を身に付けられるだろう。言い換えれば、学習できる、は、社会文化的に還元できる、の必要条件である。

論理体系が複数可能だというのは疑いがない。片や、論理的概念、いわゆる論理記号セットの解釈が複数可能か、特に、常識的解釈のサブではないものが可能か、というのは、議論の余地がある。ここでの「可能か」というのは、我々に理解可能かというレベルの話で、それ以上つっこまない。
通常の論理学では、意味論を問題にされるのはシグネチャであり、論理記号の解釈については固定されている。
もちろん論理記号の意味は推論規則と密接に関係しているが(その意味で体系によって異なるが)、それはある側面を捉えたものであるから、私たちが持っている概念のすべての側面を網羅しているとは限らない。


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誤解されたので付け加える。

「私たちは学校で論理学を習うじゃないか。経験で身につくなんてあたりまえだろ」

そういうことが問題なのではない。

汎用の学習装置、すなわち、特定の(たとえば我々が共有しているような常識的な論理の)概念の習得に有利不利がなく、何が学習されるかについてまったく平等な学習装置を想定する。つまり、入出力次第でなんでも(我々にとって奇妙奇天烈なものでも)学習するとする。私たちがそういう装置なのかどうか、が問いである。これは一般的すぎて極端な例だが、話を論理的概念についてのみに局所化してもよい。つまり、複数の異なる論理的概念のどれを学習可能か(あるいはその傾向性の大小)について差がなく、入出力だけでどれになるか決まる、そういう学習装置を想定して、私たちがそれなのかどうか、である。
なぜなら、もし何か特定の種類の論理的概念を学習しやすいようなトリガーとかガイドとか仕組みが装置に内在しているなら、それは(ここでの意味で)生得的と言ってよいからである。

たとえアリストテレス先生に付き従って論理学を習ったとしても、それは、単にその種類の論理だけ習得可能とするような仕組みが生まれつきその人に備わっていただけかもしれない。もしそうならば、その人が身に付けるとすればその論理的概念になることは決まっていた(他の種類のを身に付ける可能性はハナからなかった)のである。
完全に経験だけに依存して学習するというのは、他の先生に付き従っていたら他の論理的概念を身に付けた可能性がなければならない。
だから、学校で何かを習う、学校に行く前は持っていなかった知識を卒業後は持っている、というのは、単純な経験説への証拠ではないのだ。

ちなみに、学校へ行かなくても、私たちはある程度の論理的思考をする。つまり、現代の学校で習うのは主に上の 3 でフォーカスされているものである。そして、学校へ行かなくても 2 の意味での論理はある程度(心理学で指摘されるような劇的な間違いが時々見られるにせよ)身についている。
しかしこれらのどちらについても、経験だけで身に付けたという証拠はない。

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