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2011年7月

証明責任 2

コメントにお応え。

一方、科学上の議論等では、「分からない」と結論付けることが許されています。対立する両説があり、どちらも自分が正しいことを証明できなければ、人々は、「どちらが正しいのかは(まだ)分からない。あるいはどちらも間違っているのかもしれない。」と思っておけば良いのです。

真偽不明の状態で、直ちに結論を出す必要がある場合にだけ、証明責任の出番があります。そうでない場合は、
「誰かが何かを証明するまで、結論は保留しておく」
というのが理性的な対応ではないかと思いますが、いかがでしょうか?

科学者が理性的な人ばかりだとうれしいですね :P


科学のフィールドで可笑しいのは、「分からない」や「証拠が十分でない」が"主張"であるというケースが数あることです。前の記事で引用した事例にもそういうのが含まれているので参照ください。

この場合つまり、対決内容が「説Aが正しい」vs.「説Bが正しい」ではなく、「この証拠が説Aを十分に支持している」vs.「この証拠は説Aの支持に十分でない」、あるいは、「この証拠によって説Aが正しい」vs.「説Aが正しいかはこれではまだ分からない」なのです。
まあ、「分からない」派の人には、説Aとは相容れないデフォルトの説Bが抱かれていることがほとんどですが。

そうすると、往々にして科学者(そして科学的主張者)はその場で証拠を評価するよう急かされていますので(科学者にはpaperの審査やmeetingのコメントなどの仕事が降ってきます)、おっしゃるような猶予はありません。
というか、説の評価ではなく証拠の評価まで全部保留すると、研究はまったく進まなくなると思われます。(もちろん実際には時々判断保留される証拠もありますが。)
よって、こういう対決では保留はまずないです。(念のため、この場合「保留」というのは典型的には、「この証拠はよくわからん」と投稿した論文が返ってくることではなく、何年も音沙汰なし、ということです。返ってきたなら証拠としてダメだ(足りない)と判断されたということになります。)

証明責任と絡めると、「証拠が十分でない」派は「もっと証拠を出せ、おまえに責任がある」と言うし、「これで十分だ」派は逆ギレて「おまえのほうがそうでないという証拠を出せ」と口を滑らせているのが見かけられます。
この図式は、科学者同士だけでなく、政治家の討論や、市民と行政との争いでもよく見かけます。
最初はそうでなかったのに、責任のなすりつけあいに移行していきます。
前の記事に書いたように、全称命題だからどうこうという話は、片方の言い訳には登場しますが、ほんとうは関係してません。


こういうのは「どうあれば証拠十分か」という基準が共有されていないのがそもそもの背景ですが、なぜ共有されていないかについては、やはり一つには科学教育の怠慢があると思われます。いつも私が嘆いているように、これは専門家である科学者においてすら、です。
また、方法論の研究が十分でないということもあります。私といっしょに方法論を推し進めてくれる人が増えればありがたいのですが。
そして第三に、厄介なことに、この基準というのは認識的価値以外の価値をも巻き込むことが多いものですので、その性質から、理性的に一刀両断は難しい。言いなだめて論理的な誤解は解けても、価値対立に行き着くとどうしようもない。そういう、起こるべくして起こるケンカです。

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