Β 物理学の諸問題

錬金術

そんなのは漫画の世界だけ、映画の世界だけ、とおっしゃるので・・・

魔法漫画で使われるような意味ではなく、単純に「金を作る」という意味でですが、

現代科学によれば、錬金術は可能です。

しかし、ものすごいエネルギーが必要でコストに見合っていないので、やりません。
ただそれだけ。

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世界は連続か

ゼノンの「二分法」のパラドクスを初めて聞いたのはいつのことだったか。
小学生であったと思うのだが、何年頃かは今となっては思い出せない(旧友さん覚えていたら教えてください)。
私がすぐさま素朴に思った回答は、「『無限に分割を繰り返すことができる』と考えるのが間違い」というものだった。
すなわち、現実世界には最小単位がある、と素朴に思っていたのだ。
さらに換言すれば、世界は離散的だと思っていたのである。

この「二分法」に関しては、離散的というのは空間だけに関する話でおわる(「二分法」が時間の分割を無視しているのはミソである)。
しかし、ゼノンの出した他のパラドクスも視野に入れて世界の構築を考えると、時間の連続性もあわせて考えたほうがよさそう。

それでも、時間次元を入れても、離散で問題なくいける、と高校生まで思っていたのだ。。。が、いわゆる座標系の選択への非依存性(と、こいつを呼ぶべきか?)を考えると、多次元空間は問題にぶち当たる。
私たちのこれまでの経験では、方向によって違いがあってはならないのだ。

これまで思いついた案は統計的確率的な法則で対処するものくらいしかない。まあ完敗ではない。
確率なしでグラフ理論的にやるのは、結局無限次に持って行かないといけないだろうから、それだと連続だ罠。
やはり確率が切り離せない。そして確率の中に極限や完備性が顔をのぞかせる。無念。


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脳の一部分の変化から何がわかるか

先日の研究会で、「脳の損傷後に行動的に特異な変化が見られたからといって、それにとってその部位が必要とも十分とも意味しない」という内容の発言をした。
ここで言う損傷とは、例えば Phineas Gage のような事例を思い浮かべてもらってよい。
すぐさまその場で参加者のSさんから「十分でないというのはわかりますが必要だということは意味するのではないですか?」という反論をいただいた。
が、そのときは会の議論の焦点がそこではなかったこともあり、十分に説明しないまま流してしまったので、ここに書いておく。

上の反論にもあるように、ある脳部位の変化(損傷)が原因となって現象的変化や行動傾向の変化などが生じたとして ―その変化を引き起こしたのはその損傷なのだという因果関係を特定できたというこれはこれで要注意な前提のもとで―、その脳部位がその特定の体験変化をもたらすこと(例えば常に不安でたまらなくなるとか)や特定の認知的機能(例えば顔の識別など)の十分条件であるということは結論できない、ということのほうは、比較的理解してもらいやすいのだろう。
念のため説明しておくと、その部位が正常intactであっても、他の部位(例えば隣の部位)が損傷することで同じ症状を引き起こすかもしれない。だから、(定義上の)正常な体験や身体機能(音が聞こえるとか手で目の前のものをつかめるとか、などなど)のためにはその部位が正常であるだけでよいという主張は、部分的損傷によってその機能が損なわれたことだけからでは導けないのである。

さて、十分性のほうはよいとして、必要性のほうも私は否定している。

十分性の場合と同様に(よって文を簡単にするが)、ある脳部位が損傷することで何か体験的あるいは機能的変化が生じたとする。しかし、だからそれらの体験なり機能なりにその部位が正常であることが必要だったのだ、とは言えない。なぜなら、他の条件が何か変わることで、たとえその部位が損傷したままであっても、当該の体験なり機能なりが復活するかもしれないからである。その可能性が残っているなら、その部位が必ず正常でなければならないとは言えないはずだ。実際に、機能回復する例はある。

だから、脳の損傷からは(単独では)必要条件も十分条件も含意されないのである。
このことはもちろん脳疾患にも当てはまるし、それどころか多くの脳の活性部位の研究(最近流行の脳イメージング研究を当然含む)にも当てはまる。
特定の部位の変化(活性化だったり病変だったり)と行動パターンが相関するのをひとつ見つけたからって、(それはそれだけでは必要とも十分とも含意しないんだから)大したことは言えないのである。それによって示唆されるのは、「何か関係があるかもね」というヒント程度なのである。
そうそう、多くの人が賛同するように、病変のほうが脳イメージング研究よりも理論を画期的に発展させる見込みが高いだろう。しかしこれは、特定の脳部位がどうこうという(原因の精緻化に関する)理由ではなく、行動パターンのほうについて意外な情報が得られるという理由がもっぱらメインだと私は思う。行動と脳部位との関連性を匂わせるという点においては、ここに上げたどの情報源でも同じだから(もちろん同質ではないが)。
それと、必要十分の話からはどんどん脇にそれるが、多くの人(特に患者に接するのではなく専門家のまとめ報告を読むだけの周辺知識人)が見逃していることには、脳のある部位に傷がついたからって特定の症状が100%出るなんてことはそうないのである。おもいきり個人差があるのだ。とくに突飛なことが起こる症例が目にとまりやすいからそれが興味深く報告されているだけであって、昨今増えているそういう脳科学の本を読む人は、それがすべての人に起こっていると思ってはいけない。半側空間無視だって分離脳だって盲視だって全員ではないのだ(もちろん、ものによってその現象が生じる割合が高いものもあるし、精度が上がれば将来はほぼ確実な物理的対応物を限定できるものもあるかもしれない。実際、例えば脊髄を切れば体は確実に随意運動しなくなる)。だから、神経疾患や損傷が必要条件を示していると考えている人の根拠そのものすら危うい。

話を戻すが、実はこの必要性、十分性の証明不可能性の話は、脳の外傷、病変、活性化などの知見に限らず、脳科学にも限らず、生物学にすら限らず、あらゆる経験的探求に共通するものなのである。
必要とか十分とかいう概念は論理の領野のものである。それは必然について語るのである。そして、自然世界についての探求がそれと対照的にいくらがんばっても必然へ格上げできないということは、大昔から学者が指摘してきたことである(ごく最近はそれに奇妙な対抗をする人もいるようだが)。だから、上の脳損傷に関する知見の扱いについての指摘は、取り立てて目新しいことを言っているわけではないのである。

もちろん、脳疾患や損傷や部分的神経活動の研究に何も意味がないと言っているわけではなく、それらはヒントはくれる。ので、何が原因なのか、どういう仕組みなのか、どんな条件があるのかなどは複数の知見を加味して全体的に判断するしかないということだ。そしてそれ(neural implementationの研究)は大部分心理学の仕事に依存している。

ああ、この項で散々ブイブイと言ってきたが、「部位」ということを考えるのがそもそも脳機能局在を前提している。そしてそこんところに賛成しない人が現在も結構いるはずだ。もちろんこれは「局在の主張はマップする機能が何であるかに依存する」というweakな立場の人も含むが。
局在論は可塑性と仲が悪いし、もっとfamiliarなことには、脳の空間的配置と延長に個人差があることも局在論の困難を増やす。しかも場合によってはほとんどtype identityを主張しかかっている。
私が言いたいのは、部位の話をするときは、それが「いまこの瞬間にその部位がこれこれを担っている」ということと「これこれは必ずその部位を要する」ということを区別しなければならない、ということ。しかし、心理学者も神経科学者も平均が好きだから、平均を使っているうちにそれをinvariantと読み違えることがある。注意してね。

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神様でもよい

先日の研究会はじつに議論が盛り上がっていたが、その中でTさんが、
「別に(心理学的現象の)説明に神様が入ってもよいです」
という話を出した。
ボンヤリ科学者がこぞって嘲笑しそうな発言だ。
しかし私は、この意見も一理あると思っている。もちろん一科学者として。

神様や天使や霊魂だってそれ自体で拒否されなければならない概念ではない。
ボンヤリ科学者だってそんな言い分の根拠は出せないはずだ(トンデモ煽り屋は根拠なしに非難してくるんだが)。
他の説明概念と同じ土俵に立てて、同じ基準で取捨選択されればよい。
だから、神様でもその選択基準の上で生き残れば何の問題もないのである。

そういう意味で、神様でもよい、とはそのとおり。
問題は、取捨選択の基準である。
ある基準を採用すれば、「神様によって・・・」という説明はバッサリ切り捨てられることになるだろう。
しかし、どんな物事についてどんな基準を採用しようとも、神様は必ず切り捨てられる、ということはないはず。
少なくともそんな証明は誰もできていない。

よって、神様説は何らかのケースで有力である可能性があるし、それが科学的な定説になる可能性も残っているのである。

まあ神様の定義にもどっぷり依存するがね。

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宇宙に目的はない?

見つけました。「注意深くなれ」コレクションへ入れておきます。

"Science says the universe has no purpose."

違う。正しくは、

"Science doesn't (or cannot) know whether the universe has a purpose."

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トンデモ

「心が機械に影響を与える」
http://hotwired.goo.ne.jp/news/technology/story/20050720301.html

このタイトルはイカンのですが・・・まあニュース記事のタイトルなので仕方なく引用。

このような研究が常に厳しい目にさらされるのはもちろんその妥当性が「怪しまれる」からだが、だからといって、安易に否定するのも間違いである。
このような研究を「トンデモ」と呼んで冷やかす人がいる。

トンデモという新しい言葉を作ったのはかまわないし、彼らの「トンデモ」の定義に当てはまる研究があることは確かだ。しかし、わかっている人はわかっているように、トンデモはいわゆる擬似科学と同じではない。前者に後者が含まれる(らしい。これらの語の定義によれば)。ここが一般人の理解として行き届いていないのがまずい。
そして、上にあげた記事にあるような研究を非科学的だとまで言ってしまうのはおかしい。というかわかっていない。確かに科学的検証が不十分なのに無根拠な主張をしているケースはあるのだが、彼らのネタの範疇にはそうでないものも入ってしまっている。

常識や通説に合わなければなんでもかんでも「トンデモand擬似科学」と言ってしまう人がいるのだが、われわれの目からすればそういう人のほうが科学のなんたるかを理解していないように見える。私はこの「トンデモ」嘲りブームにはちょっと気がめいる。たいてい間違いや誤解が含まれているからだ(少なくとも私は、1つもそれが含まれていない本は今まで見たことがない)。しかも私も少数派だし。

トンデモを斬る本が多数出版されている昨今、市民の皆さん、そういうものを読んで日々の生活でだまされないように努めるというよりも、そういうものを「読むとき」こそご注意あれ。

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理系文系

よくある分類だ。学問を二分するとはなんと安易な・・・。

それはそうと、究極を求めるのが大好きな基礎研究者さんたちに降りかかる「もっとも基礎的な学問は何か」問題がこれと似たような図式になっていることをだいぶ前に発見した。
典型的には

 物理学 => 理系
  哲学 => 文系
     ↑
  論理学、数学
こんな感じ。 madな自然科学者はこの世の出来事はすべて数学と物理法則で記述できると思っている。これこそが究極だ、って感じで。 一方、(私は違うと思うけど)文系に分類される哲学者は、それこそ伝統的には、自分たちが人類の全知識の基礎付けをやるんだと意気込んでいる。現象主義なんてのもあったりして、物理学者、もとい、唯物論者と対立すること多し。 論理学者と数学者は、世界の認識の究極とは別に(それ以前に)、道具立てを提供しているということで、自分たちが徹底した基礎だと思っている。

例文を挙げて終わろう。
物理学者「物理学はこの世界の法則を記述するのさ」
哲学者「でもそれをやっているのは人間だろ。所詮われわれが認識できるものといえばわれわれの主観でしかありえない。客観なんて証明できない。この世界のすべては私の内で作り上げられているようなものだ。世界は私の心なんだよ」
物理学者「心は脳神経の活動によるものじゃないか。神経科学も自然科学、結局神経の働きは物理法則によって決まっている。だから心だろうがなんだろうが物理学さえあれば十分なのさ」

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