Γ 生物学の諸問題

脳の一部分の変化から何がわかるか

先日の研究会で、「脳の損傷後に行動的に特異な変化が見られたからといって、それにとってその部位が必要とも十分とも意味しない」という内容の発言をした。
ここで言う損傷とは、例えば Phineas Gage のような事例を思い浮かべてもらってよい。
すぐさまその場で参加者のSさんから「十分でないというのはわかりますが必要だということは意味するのではないですか?」という反論をいただいた。
が、そのときは会の議論の焦点がそこではなかったこともあり、十分に説明しないまま流してしまったので、ここに書いておく。

上の反論にもあるように、ある脳部位の変化(損傷)が原因となって現象的変化や行動傾向の変化などが生じたとして ―その変化を引き起こしたのはその損傷なのだという因果関係を特定できたというこれはこれで要注意な前提のもとで―、その脳部位がその特定の体験変化をもたらすこと(例えば常に不安でたまらなくなるとか)や特定の認知的機能(例えば顔の識別など)の十分条件であるということは結論できない、ということのほうは、比較的理解してもらいやすいのだろう。
念のため説明しておくと、その部位が正常intactであっても、他の部位(例えば隣の部位)が損傷することで同じ症状を引き起こすかもしれない。だから、(定義上の)正常な体験や身体機能(音が聞こえるとか手で目の前のものをつかめるとか、などなど)のためにはその部位が正常であるだけでよいという主張は、部分的損傷によってその機能が損なわれたことだけからでは導けないのである。

さて、十分性のほうはよいとして、必要性のほうも私は否定している。

十分性の場合と同様に(よって文を簡単にするが)、ある脳部位が損傷することで何か体験的あるいは機能的変化が生じたとする。しかし、だからそれらの体験なり機能なりにその部位が正常であることが必要だったのだ、とは言えない。なぜなら、他の条件が何か変わることで、たとえその部位が損傷したままであっても、当該の体験なり機能なりが復活するかもしれないからである。その可能性が残っているなら、その部位が必ず正常でなければならないとは言えないはずだ。実際に、機能回復する例はある。

だから、脳の損傷からは(単独では)必要条件も十分条件も含意されないのである。
このことはもちろん脳疾患にも当てはまるし、それどころか多くの脳の活性部位の研究(最近流行の脳イメージング研究を当然含む)にも当てはまる。
特定の部位の変化(活性化だったり病変だったり)と行動パターンが相関するのをひとつ見つけたからって、(それはそれだけでは必要とも十分とも含意しないんだから)大したことは言えないのである。それによって示唆されるのは、「何か関係があるかもね」というヒント程度なのである。
そうそう、多くの人が賛同するように、病変のほうが脳イメージング研究よりも理論を画期的に発展させる見込みが高いだろう。しかしこれは、特定の脳部位がどうこうという(原因の精緻化に関する)理由ではなく、行動パターンのほうについて意外な情報が得られるという理由がもっぱらメインだと私は思う。行動と脳部位との関連性を匂わせるという点においては、ここに上げたどの情報源でも同じだから(もちろん同質ではないが)。
それと、必要十分の話からはどんどん脇にそれるが、多くの人(特に患者に接するのではなく専門家のまとめ報告を読むだけの周辺知識人)が見逃していることには、脳のある部位に傷がついたからって特定の症状が100%出るなんてことはそうないのである。おもいきり個人差があるのだ。とくに突飛なことが起こる症例が目にとまりやすいからそれが興味深く報告されているだけであって、昨今増えているそういう脳科学の本を読む人は、それがすべての人に起こっていると思ってはいけない。半側空間無視だって分離脳だって盲視だって全員ではないのだ(もちろん、ものによってその現象が生じる割合が高いものもあるし、精度が上がれば将来はほぼ確実な物理的対応物を限定できるものもあるかもしれない。実際、例えば脊髄を切れば体は確実に随意運動しなくなる)。だから、神経疾患や損傷が必要条件を示していると考えている人の根拠そのものすら危うい。

話を戻すが、実はこの必要性、十分性の証明不可能性の話は、脳の外傷、病変、活性化などの知見に限らず、脳科学にも限らず、生物学にすら限らず、あらゆる経験的探求に共通するものなのである。
必要とか十分とかいう概念は論理の領野のものである。それは必然について語るのである。そして、自然世界についての探求がそれと対照的にいくらがんばっても必然へ格上げできないということは、大昔から学者が指摘してきたことである(ごく最近はそれに奇妙な対抗をする人もいるようだが)。だから、上の脳損傷に関する知見の扱いについての指摘は、取り立てて目新しいことを言っているわけではないのである。

もちろん、脳疾患や損傷や部分的神経活動の研究に何も意味がないと言っているわけではなく、それらはヒントはくれる。ので、何が原因なのか、どういう仕組みなのか、どんな条件があるのかなどは複数の知見を加味して全体的に判断するしかないということだ。そしてそれ(neural implementationの研究)は大部分心理学の仕事に依存している。

ああ、この項で散々ブイブイと言ってきたが、「部位」ということを考えるのがそもそも脳機能局在を前提している。そしてそこんところに賛成しない人が現在も結構いるはずだ。もちろんこれは「局在の主張はマップする機能が何であるかに依存する」というweakな立場の人も含むが。
局在論は可塑性と仲が悪いし、もっとfamiliarなことには、脳の空間的配置と延長に個人差があることも局在論の困難を増やす。しかも場合によってはほとんどtype identityを主張しかかっている。
私が言いたいのは、部位の話をするときは、それが「いまこの瞬間にその部位がこれこれを担っている」ということと「これこれは必ずその部位を要する」ということを区別しなければならない、ということ。しかし、心理学者も神経科学者も平均が好きだから、平均を使っているうちにそれをinvariantと読み違えることがある。注意してね。

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進化心理学と遺伝子

昨日は大塚さんの言う「強烈な裏番組」があって、こころの未来ワークショップ「こころの探求:私たちの課題」にはちょっとだけ顔を出して退席しました。しかし私の聞きたいご発表は聞けたのでラッキー。

平石さんの話、「他人を信頼するための遺伝子」ですが、genotypeとphenotypeの区別を強調し、このgenotypeに一般信頼遺伝子(?と呼べるのか?)があって、その「能力」(?と呼んでいいのか?)が使われるかどうか(信頼してどうこうという具体的行動に出るか)は他の要素(外向性とか)との交互作用で決まるので、遺伝率0%の問題、個人差の問題、文化差の問題をクリアできる、という見通し。
この辺、戸田山さんの話とも関係するのだが、epigeneticsを考えると、話ががっつり覆る。neo-DarwinianなDNAの交互作用だけで話に決着付けられない。genotypeの意味がようわからんくなる。DNAではまずい。だから、平石さんの話は遺伝子をどうこういうより、もっと広い枠(オルガネラとか、発生環境とか)に持っていかなければならない(それか、私が研究会で言ったみたいに現代分子生物学的な遺伝子の定義を変えるか)。しかし、そうするとやっぱり難問が復活するのでは。つまり、DNA以外の仕方でも表現型が変化するならば(DSTの人は子育てなんかも含めちゃうらしいが)、自然選択にかかるのはいったい何か、ということになって、遺伝率の問題を再考しなければならない上に(これは比較的易しい)、そもそも遺伝って何やねん!進化って何やねん!という話になる。遺伝子コードより後からの作用を認めると、別の線引きが要るようになるわけだ。そうじゃないと(まさにDSTみたいに)発達と遺伝が不可分になるじゃん。
だから、進化心理学が「遺伝子が~~」というテーゼを守るためには、これが「生存闘争の主体だ」という線引き作業をがんばらにゃならん。もう一つ取れる道は、このテーゼを捨てること。

さて今日はこの問題をこれ以上書くのはやめておいて、別の発表に視点を移そう。
その裏「生物学の哲学と心の哲学の接点」での中尾さんのご発表では、コメントに対して、「進化心理学は遺伝子をどうこういうことを目指しておらず、行動を進化論的に説明するというレベルに関心がある」とおっしゃった。もうお分かりのとおり、これは張本人たる裏番組の平石さん(を含めた皆さん)が考えていることに真っ向から反する。
どっちがおかしいかといわれたら、そりゃあ中尾さんに分が悪いでしょう。進化心理学者は遺伝子考えてますから。その事実を汲み取って哲学的(?)考察を加えるのが彼ら「生物学&心理学の哲学者」のやろうとしている仕事でしょうからね。しかし、規範的に(?)まともな立場をとろうとすると、中尾さんのおっしゃるところにとどめて進化心理学者は謙虚でいるほうがよいのかもしれない。そもそも私は進化心理学に関心が薄いのでなんとも言えんが、心理学者が分子生物学レベルのことに手を出して生産的であるとは思えない。

ちらっとだけ私の考えも書いておこう。
遺伝ってなんやねん!と書いたが、親から子に伝わるものがあるのは確実だ(そのようにわれわれは認識せざるを得ない)。遺伝という現象の存在証明にはそれで十分だが、問われているのは「どこからどこまで」問題なのである。これは明晰に分析しようという希求から来るものだ。もちろんそれができない可能性もある。でもここで書きたいのは、あがくとすればどのような道があるか。1つは物理的囲い込み。もう一つは素朴生物学的分析、あわせて心理学的本質主義の分析である。

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人間が機械である素朴さ

どうして人間機械論は受け入れられないのか。はたまた、どうして受け入れられるのか。

これはとても不思議な(それゆえ心理学的にも興味深い研究対象となるだろう)問題である。
ご存知のとおり、Descartes的な生物の機械論をさらに徹底した人間機械論で有名なのは Julien Offroy de La Mettrie である。少なくともその時代から、この問題はずっと論争の的だった。

「人間は機械である。」という結論に行き着くには、通常いくつかの推論段階を経る。

「すべての人間は生物である。」これをまず認めるのが典型的な道である(そうである必要はないが)。しかし、この命題を否定する人は、学者でなくとも一般人にもまずいない。「宇宙船地球号だ、人間は他の動物と同じ(並列的な)乗組員の一人なんだ」などというコピーが大多数に受け入れられているようだし。「人間は生物ではない」などという主張をまじめな顔をして叫んでいるのは宗教斡旋者以外に私は知らない。
次に、「すべての生物は機械である。」ここでは先ほどよりも同意者が多少減る。袂を分かつのはいわゆる生気論者が典型的である。ほとんどすべての現代生物学者は生物の行動をすべてmechanisticに説明できると考えている。一般の人々においては、素朴生気論者であることが少なくない。生気論者であるかどうかは教育水準と相関するかもしれないが、何分勉強不足ゆえ私はこれについての実証的データを見たことはない。まあ、生物学者のスタンスを正しいと信じている人は多い。

これら2つの命題を前提とした演繹によって、「すべての人間は機械である。」が導かれる。
つまり、「人間は機械である」を信じるのは、「人間は生物である」と「生物は機械である」を両方信じている場合がほとんど(すべてかも)で、少なくともどちらか一方を信じていなければ「人間は機械である」を信じはしない。

「生物は機械である」については、素朴生物学に関する興味深い研究がなされてきているので、これが心理学者の心をくすぐるのは間違いないだろう。直観的に、バクテリアやアブラムシやミミズはそれ自体が備える物理学的メカニズムにもとづいて動いているだろうと、多くの大人は信じている。そこからまじめに(一貫性を重視して)考えると、同じことは大きな植物や動物にも言えるだろうから、すべての生物の行動は物理的メカニズムにのみのっとっているであろうと信じる。しかしこれは、昔から持っていた生物と機械の差異についての直観(古典力学的法則に従う動きと生物の動きとの差異)、生物的な動きを見たときの印象、と対立しがちなため、とまどう人がいくらか出る。でも学者は論理重視だから、主観的印象は二の次。

もっと興味深いのは、実は、「人間は生物である」のほうだったりする。こっちはおそらくほとんど研究されていない。この直観が不思議だというのをずっと前から私は訴えているのだが、どうしてなのかつかみどころがない。いつから私は人間を生物だと思うようになったのだろうか。これも教育の賜物なのか。あるいは、Carey流の「生物は人間である」からきているのかもしれない。もちろん、これを否定した哲学者さんたちもいた訳ですから、誰もが認めるというものでもないのだが、ここまで万人に受け入れられているのは不思議でならない。人間が生物でない可能性はどこへいったのだろう。

まあ、このようにして、結構簡単に、「人間は機械である」は受け入れられてしまう。受け入れない少数の人は、「生物は機械である」を受け入れない人たちである。もう一方の命題ではおそらくない。
それゆえに、機械論的に人間の行動を説明しようとする学者が多数派を占める現状になるのも当然の成り行きである。そう、「機械とは何ぞや?」がここで重要な問題になるはずなのだが、これをまじめに考えている科学者は滅多にいない。たいていは素朴に扱っている。
このようなご時勢から、「人間は機械ではない」などというと四方八方から馬鹿にされる・・・はずである。が、そうともいえない事情があるようだ。

事が複雑になるのは、さらに次の命題もついてくるからである。
「私は人間である。」
これを先の演繹推論に加えると、「私は機械である。」が結論される。これがどうも腑に落ちないらしい。よって、「人間は機械である」は保留にする人がいる。一連の命題を全部真だと認めてしまうと「私は機械である。」が真になってしまうので、この結論を回避するにはどれか1つ以上を拒否しなければならない。どれを消す人が多いのかわからないが(「生物は機械である」なのか?)、どれも認めるのが当然と(大多数には)思われているから、場内騒然となって哲学者がウキウキする事態となるわけだ。一徹、「そうだ、私は機械だ。」という人もいるし、どっかを否定してなにかうまい回避策をひねり出そうと必死になる人もいる。

よく考えると、ここでも不思議なのは、「私は人間である。」が先の「人間は生物である。」と同等かそれ以上に万人に受け入れられていることである。これも未だによくわからない、興味深い問題である。どうしてみんなそう信じるようになったのだろう。私が人間でない可能性はどこへ行ったのだろうか?

ということで、人間機械論さらには私機械論の素朴知識は、 私→人間→生物→機械 という連鎖からなっていて、各々の知識から最終的に私は機械だということになる。
それぞれ個別の命題を、皆がやるように素朴に正しいと信じるだけでよい。さすれば、論理が例外なくあなたをアンドロイドにしてくれる。

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社会性

社会性(sociality)は難しい。研究テーマに挙げておきながら、ひたすら後回し(長期的目標?)にしているのはそのせいだ。私はいくらかの社会科学者のように軽々しく、楽観的に、手当たり次第に調べるようなことはしない。

ある個体が社会的であるとは、他個体に能動的に干渉すること、あるいはその傾向である。

ここでいう「干渉」が含意するのは、因果的影響を及ぼす、ということ。

(この定義だけであちこちから反論が来そうであるが、まあ私みたいなか弱い鳥は早いとこ撃ち落してください。)

きちんと理解するには、社会化(socialization)と定義を比べてみるのがよい。ついでに社会的云々のあいまい性もわかる。

難しいとは言っても、これが研究テーマなので、考えざるを得ない。私の理論からすればこれを考えずには抱えた難問は解けないと思われる。思考研究は個人内の問題だと思っている人がたくさんいるみたいだが、私にはそうは思えない。とくに人間の意識的思考(感)は、社会性と深くかかわっているように見える。
でも、社会性は、切り口(に見える傷跡)が、たくさんあって、困る。

社会性はやはり個体と群との間の関係的性質の話だ。そうするともっぱらMMDだな。
進化的起源は横においておいて、発達がネックだ。こいつが人間の社会的機能をわかりにくくしている。
受精卵からお年頃まで非社会的環境で育てるなんてとんでもない実験をやればそりゃあ一気に進展するでしょうが、現状不可能だね。
成人だとどうにも決定的な証拠を出すのは難しそうなので、最終的にこの問題にずばっといくためには幼児を対象に調査をする必要があるだろう。それまでに私のスポンサーになってくれるか紹介してくださるかする偉人が現れるとうれしいなぁ。身を粉にして時給6!円で働きますゆえ。

そんな話はともかく、社会性は人間に特有な特徴ではないが、人間の社会性は特徴的なほど複雑である。この複雑性はもちろんインタラクションのたまものであろうが、私の着目する思考と社会性の関係に関しては、それほど複雑である必要があるかは疑問である。まあつまりは、原始的な思考は人間以外もやっていると認めるが、人間的な思考は複雑性のどっか中間地点で発生すると。

私がいつまでもsocioを外さないのはこういう背景。また、認知的側面に関心を持って研究しているのは、それに最初に魅かれたのではなく、他の問題を解くための論理的帰結からである。ようするに出張。上位の関心は他にある。


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分子生物学のセントラル・ドグマ

分子生物学のセントラル・ドグマとは、不可逆性である。
遺伝暗号の翻訳のしくみの不可逆性である。

これはDNA→RNAでの話ではなく、RNA→proteinの部分の話である。
よく間違えられる。
RNA→DNAはあり得ることがわかっている。

もちろんこの不可逆性は他と同様、単なる説である。が、みんな信じている。
だからこそセントラル・ドグマである。

これが否定されると、後天的獲得形質のDNAによる遺伝をまじめに考えねばならなくなる。

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進化は論理、合理性は?

日心中日。

WS「合理性の分化と統合」で、時間軸が入ると厄介になる、すなわち、短期的な合理性と長期的な合理性の間に統合に対する障壁の実質がある、というコメントが出たが、それは誤解だと私は思う。
コンフリクトを生み出しているのは目的の体系だ。複数の目的を同時に考えようとしたときに問題が起こる場合があるのであって、時間軸でずれているからというのは本質的ではない。これは合理性が目的と密接に絡んでいるという以前書いた話と関係する。

それと、ダーウィニアンな進化の原理と進化心理学的合理性をごっちゃにしてはいかん。ぜんぜん合理性の話になっていない。まあ当人も「進化は論理」という話で趣旨とずれるかも認めているので批判ではないのだけど。「進化は論理」について長谷川&長谷川(2000)を引用していたが、そんなことはもっと前からみんな言ってる。何の斬新さもない。教科書的な本でも、たしかMaynard Smith(1986) (邦訳は1990)にも書いてたぞ。「進化は生物の基本的性質に関するいくつかの前提が真だとすればそこから出てくる論理的帰結である」みたいな表現で(手元に本がないからきちんとした引用でなくてごめんなさい)。前提もちゃんと列挙してた。
専門家なのだから「進化心理学的合理性とは何を指すか」を浮き彫りにしてほしかったなあ。これってぼやけてると思うし。

というのは、


  1. 進化の原理にしたがって(ヒトを含めた)生物全体が変化してきたこと。

  2. 進化の過程を経て現代のヒトに備わっているサブシステムあるいはモジュールがいくつかあって、今もヒトの行動産出にそれらが用いられていること。

  3. 現代のヒトに備わっている「すべての」機能(サブシステム、モジュールとそれらのセットによってもたらされる)は進化の結果として得たものだから、現代のヒトが働かせるどのような機能も適応的と考えること。


進化心理学的合理性の議論の中ではよくこれらがごちゃごちゃになっている。
私の個人的な意見からすると、明らかに3.は間違い(で、私は進化心理学者とケンカしてしまう)。
なぜなら、a)システムの全体性を考慮していない、また、b)適応度は環境との相対によって決まることを考慮していない。

動機WSについては白熱するので別記。

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優生学

この文章は優生学をある面で支持している。論理的考察であるので、感情的議論を差し挟むことなく読むべし。それができそうにないなら読まないほうがよい。

世の中には悪しき学問とかペテンとか呼ばれた"負の学問"がいくつかある。優生学しかり、錬金術しかり。
優生学は論理的である。その主張することはそれなりにまともである。たしかに、進化論と遺伝学の成果によれば、それなりの処遇をほどこせば人類の形質変化を多少なりともある方向に傾けることができるかもしれない。子孫がある形質を持つ可能性を増やすことができるかもしれない。肉体的形質のみならず、人間の高次精神的技能(らしきもの)がどれくらい遺伝に左右されるかはわからないが、これについても、他の種の例から考えると、それが不可能であると断言することはできないだろう。論としては決定的な不具合はない。
従って、優生学はその学問としてのロジックを根拠に否定される見込みは高くない。科学者としては比較的まともなことをしている。これはノーベルがまともだというのと同様だ。そうして省みると、優生学は冷遇されすぎである。

たとえ、人間の形質の変化をある方向へ導くことができる、としても、それをして何の意味があるのか、という点は別の問題である。これは厳密に言えば優生学の外なのである。正当な意義を主張して、実践としてこの学問の成果を適用すればよい。私にはそんなことをする(子孫の生存可能性を意図的に操作する)意味がまったくわからないが、意味があると言う人はやればよかろう。これは問題ない。これを否定すると、同じ理由で医学の適用を否定することになる。
私は現代日本医学のかかげる生命倫理も理解できないが(だからこそ医者にならなかったのだが)、一人の人間の意見で他者の行いを縛ることなどできないので(自由主義のもとで許される範囲に医学的処置は入っていると私は認める)、望む人は望むようにすればよかろう。これは優生学にもあてはまり、優生学だけ差別を受けるいわれはない。優生学はそれ自体、虐げられるべきものではないのである。その成果を適用した結果、誰かにとって不満な事態に至ったとすれば、その人が非難すべきは適用した人の行いである。優生学を発展させた人間ではないし、(我々の法と思想のもとでは)その人にとって関係のないところでの優生学の実践ですらない。

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anthropology, androidology, anthropoidology

「人間は動物だ」
この一見自明な命題にもとづいて動物比較研究、人類学的研究、進化心理学的研究など、様々な研究が行われている。
私にはこれを(生物学的根拠でなく)素朴に認められることが不思議に思えるんだけど、それは今は横において・・・

他の動物から切り離して人間に特有だと思われる問題について考える時、とくに認知システムをもつ個体であることを前提とした問題を考えるときに、それがどの範囲に適合する問題なのかということは、まずもって問題を把握するという点で欠かすことができないのは明らかである。しかし、必ずしも研究者にそれが自覚され、実践されているとは限らない。というよりも、むしろほとんどの人は考えていないし、考えようともしていない。
anthropology
androidology
anthropoidology
あなたがひたむきになっているリサーチクエスチョンはこれらのどれに当たるものか考えてみてください。
もちろん、人によっては、実はもっと外側の問題を扱っていた、ということも十分ありうるけどね。

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続 evolution

誤解が蔓延している。
ウェブ上を散歩していると、よくわかる。今日も出くわした。
とくに、こんなblogみないなのが流行ってからはますますで、「一般市民の理解」が実際のところどんなものなのかが露呈されているんだと思う(これはこれでよいかも)。作者さんたちにひとつひとつツッコみたくなるけども、あまりに多すぎてそんなこともできず、まいってしまう。

自然選択と生存闘争の説は、進化説が正しいとした上で進化のメカニズムを説明するものであって、進化説の内容ではない。ここを混同しないようにしましょう。
また、従って、頻繁に用いられる便利なキーワード「適応」も、メカニズムを説明するある説の上で登場するのであって、進化と必然的な結びつきを持つものではありません。

この点は試金石になりうるので、もしここを取り違えているようなら、その人がたとえ専門家だと称していても疑ってかかるほうがよいでしょう。

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evolution

しっかし先日の議論はまずかったな。
進化論に対する評価と進化心理学に対する評価は別に話すべきだった。今考えるとあたりまえだ。


ところで、「進化」ってあんまりいい訳語じゃないと常々思う。
「化」はまあいいとして、「進」はなにかしらのベクトル上の正方向への動きを示す言葉なので、往々にして誤解をまねく。進化(と呼ばれている概念)はそのようなものではない。
進化論なんて言葉を聞いた日本人は、生物がより優れているものに変化する、というような印象を受けている人がかなりいるのではないだろうか。「進化の頂点に立つ」なんて表現があるくらいだから。
私は、theory of evolution は「進化論」ではなくて「生物変化論」などの対訳のほうがよいと思う。忠実にいけば「展開論」だと思うが、それでは味気ないので。誰が「進化」なんて訳したんだろう?
theory of evolution では、種は「変わる」けれども「進む」のではないんですよ。たぶん「進む」を支持するためには、例えばダーウィニズムであったとしてもさらに別の仮説をくっつけないといけないんだと思います。複雑さとかね。

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