Δ 心理学の諸問題

良い問いと悪い問い: 一方そのころ

先の記事から削った余談。


二、外の世界のほんとうの有り様とか法則とかは、我々の能力ではすべて思い浮かべられないかもしれない。

これは、これまでにも書いた感覚の性質にもとづく論(例えばこれなど)とはちょっと違って、悟性の限界の意味です。
たぶん過去に同じように思った人がたくさんいたことでしょう。

先の記事では、図の B に含まれない A の話でしたが、こちらは A に含まれない B (以下これを I と呼ぶことにします)の話です。


そういう I があったとしたら、我々にはどう見えるのか。
端的に言って、まったく無関係でいられるかもしれません。あるいは、「この世界ってよくわかんない世界だな」となるかもしれません。しかしそのよくわかんなさの原因を知ることはできません。
すなわち、I があるのかどうかは当然認識できず、よくわかんないのが A の内側のせいなのか A の外側に何かあるからなのかを区別できないのです。

二次元に落とした影からは元が何次元だったのかはわからない、のと同様です。


これは、我々によるこの世界の理解の限界点を言っているわけですが、しかし、
認識能力が誰しも、未来の誰もかも、同じであるとは限りません。
つまり、我々とは根本的に違う能力を持ち、違う仕方でこの世界について考える人がいるかもしれません。それこそが進化というものを支える要素なのですが。

よって、世界の把握をあきらめる必要はない。

でもなー、どうしてそれが人だということがあろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

simplist's cleaver

fam です。
いろいろなところで、オッカムの剃刀 Occam's razor がよく引かれますが、それについての説明が間違っていることがときどきあります。しかし、次に挙げる場合に比すれば頻度はさほどでもないです。

これは私の研究の一部なのですが、人はどうやら単純なものを好むようです。非常に荒っぽい一般論として。

余談ですが、その理由について。
大量な文脈を調べないといけないのでまだ途上ですが、一つの有力候補として、認知能力が限られている、というのが挙げられます。(c.f. 行為する有限の人間
さらには、認知システムの作り方として、ある特定の複雑性レベルを中心とするよう最適化されてて、こうなっている、という理由も有力です。

それはともかく、わき出てくるこの単純さへの希求に素直に従ってはいけません。

オッカムの剃刀が、まともだと評価されるのは、次の条件が付いているからです:
歴史的な事は私も詳しくないですが、古くからの表現の1つとして

Plurality must never be posited without necessity.

より現代的な表現としては
other things being equal, a simpler explanation is better than a more complex one.

(c.f. ceteris paribus)

複数の理論やモデルを比較する場合、この without necessity あるいは other things being equal には、同じ説明力を持つ、というのが中心的部分として含まれます。
よって、この剃刀によってエンティティを削るとしたら、それによって少々説明力が落ちてはならないのです。
なのに、この点を誤って剃刀を引いている例が多いのです。

例えば、回帰分析で、説明変数の数を減らすと、全体での分散説明率が落ちます。しかしモデルは単純になります。
こういう場合に、オッカムの剃刀を引用して変数を減らすことを正当化しようとします。これが間違いです。
オッカムの剃刀はそういうことを勧めているのではありません。

誤解の無いようにしてほしいのは、ここで指摘しているのは「オッカムの剃刀の内容を正確に理解して使っていない」事であって、上記の例のように、回帰分析で変数を減らす行い自体をダメだと言っているのではない、ということです。

こういう場合に変数を減らすことの正当化に使えるのはオッカムの剃刀ではありません。他の何らかの正当化が要るでしょう。(そして実のところその正当化はかなり難題でしょう。これが私が研究してきた内容でもあるし、何百年も前から学者が格闘している問題でもあります。)

「多少説明力は落ちるけど、がっつり単純になるから、こっちのほうがいいや」というのは、単純主義です。(上で正当化が難しいと書いたとおり、単純主義が真実に近づくことは保証されていません)
大なたを振るって、食べれる部分もごっそり切り落として、綺麗な角形のサーロインだけ残しているのです。
それは繊細な剃刀の技ではありません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

政府首脳に落ち着いてと言われても

研究会のあとで人づてに、海の向こうに渡った T さんが元気にしてらっしゃること、
そして、今回の災害に伴う市民の様子について、今こそ研究と教育に乗り出すべき、
と憂いていらっしゃると耳にした。
まことに、まことに、おっしゃるとおり。
ベテランは当てにならないので T さんが帰ってきて日本のために尽力していただけると非常に助かるのだが、
そうもいかないのか。

前のときも書いたが、さらにどんどん思考がひどくなっている気がする。
教育政策のせいなのか、政治情勢のせいなのか、メディアのせいなのか、よくわからない。

日本の人々は、たしかに、よい面も持ち合わせている。海外誌でも評されたとおり。
それを殺す必要はない。
おそらく両立は可能なので、うまくすれば、世界でも抜群にすばらしいことになるはずなのだが。

ぜひとも教育研究への理解と惜しみない協力をお願いしたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

考えるに勝るものは無し

考えるに勝るものは無し。

だが、残念ながら、私たちは時の外で考えることはできない。

しからば、十分に先立って考えるか、それがかなわないならば、考えるを適当なところで打ち切らなければならない。

さもなければ、時の内で考えることではより劣る成果しか得られない。

ところが、考えようか、考えまいか、この分岐点たる適当なところがどこであるかは、これまた考えなければわからない。

そして論はまわる。

循環から離れるには、先立って考えるしかない。

もう先立てなくなってしまった件については、潔くあきらめて勘で動くしかない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

論理は学習されるか

先日の研究会でまた、本題とは違う話題が盛り上がった。
だいぶ前に書いて以来の、亀な問題だ。

論理は経験によって身につくのか?


生得的なもの一切なしで、論理的概念や推論規則が汎用学習装置によって習得可能か、ということだ。
もしそうでないなら、論理的概念は、あまたの概念とは区別された特別な位置にあることになる。
ここでの「学習」とは、行動主義的意味であり、入力と出力の比較的安定な関係がシフトすることである。

入力と出力の関係が論理的であることを達成すれば、学習したと言ってよいが、それは、装置が論理的に(法則に違反しないように)動いていることからは必然化されない。
なぜなら、入力が表すものと出力が表すもの、これらの content の関係が論理的かどうかを問うならば、それは概念間の問題であり、それを実装する(三人称的)記号システムの問題であるから、物理レベルで論理性が保たれていることからは結論が出せないのである。
例えるなら、完全に論理回路に従って動作しているコンピュータ上に論理的でない推論を表現することは可能である。

さらに、論理的概念について話したり、推論規則を自覚的に適用することは、入力と出力の関係が論理的であるという以上のことを要求する。
入力と出力が論理的であるように装置に学習させられたとしても、それは、どうしてそこからそのような論理自体の概念を得られるのかを説明しない。
これは、言語の行動主義的説明一般に通じるものがある。

装置の実現レベルの話も合わせると、3種類の異なる問いがあることになる。

1 動作機構が論理に違反している装置が入出力の反復によって論理に従うようになることは可能か
2 装置の入出力が表す内容が論理的関係を満たすように、入出力の反復によって装置が変化することは可能か
3 装置の入出力の反復によって、その入出力の規則性についての入力に対して装置が妥当な出力を返すようになることは可能か

そもそも 1 については、前提となっているところの、論理に違反している装置の存在があり得ないとみんな思っている。というか、そのような物理的存在はおよそあり得ないと思っている。よって問題外とされる。
2 については、可能だと思う。どの程度まで、とか、どのように、とかで、論者がわかれていると思うが、不可能とは言えないとたいてい認めるだろう。その意味でロックは正しい可能性が残る。でも、ほんとにすべてについて?ということで限界も示唆される。生得的なものを入れたほうが実装が楽なのも確か。
3 は難関である。正当化の問題とも関わるだろう。以前の記事で話題にした点もこれである。

昔から哲学者は、論理や数学についての命題はアプリオリの部類に入れている、つまり、経験によらないと言っている。しかし、経験によらないというのは、経験をしなくても持っている、という意味と、経験に応じて真偽が決まるものではない、という意味と、分けられる。

以前の記事では、社会文化的に還元できるかどうかを考えていた。これは学習できるの一種である。だが、学習は、文化的なものを学習するに限らない。単に物理世界に暮らすだけで学習されることもある。上記のように論理的関係は物理世界に実現されているなら、それだけで(他の人と一緒に暮らさなくても)論理的反応を身に付けられるだろう。言い換えれば、学習できる、は、社会文化的に還元できる、の必要条件である。

論理体系が複数可能だというのは疑いがない。片や、論理的概念、いわゆる論理記号セットの解釈が複数可能か、特に、常識的解釈のサブではないものが可能か、というのは、議論の余地がある。ここでの「可能か」というのは、我々に理解可能かというレベルの話で、それ以上つっこまない。
通常の論理学では、意味論を問題にされるのはシグネチャであり、論理記号の解釈については固定されている。
もちろん論理記号の意味は推論規則と密接に関係しているが(その意味で体系によって異なるが)、それはある側面を捉えたものであるから、私たちが持っている概念のすべての側面を網羅しているとは限らない。


--

誤解されたので付け加える。

「私たちは学校で論理学を習うじゃないか。経験で身につくなんてあたりまえだろ」

そういうことが問題なのではない。

汎用の学習装置、すなわち、特定の(たとえば我々が共有しているような常識的な論理の)概念の習得に有利不利がなく、何が学習されるかについてまったく平等な学習装置を想定する。つまり、入出力次第でなんでも(我々にとって奇妙奇天烈なものでも)学習するとする。私たちがそういう装置なのかどうか、が問いである。これは一般的すぎて極端な例だが、話を論理的概念についてのみに局所化してもよい。つまり、複数の異なる論理的概念のどれを学習可能か(あるいはその傾向性の大小)について差がなく、入出力だけでどれになるか決まる、そういう学習装置を想定して、私たちがそれなのかどうか、である。
なぜなら、もし何か特定の種類の論理的概念を学習しやすいようなトリガーとかガイドとか仕組みが装置に内在しているなら、それは(ここでの意味で)生得的と言ってよいからである。

たとえアリストテレス先生に付き従って論理学を習ったとしても、それは、単にその種類の論理だけ習得可能とするような仕組みが生まれつきその人に備わっていただけかもしれない。もしそうならば、その人が身に付けるとすればその論理的概念になることは決まっていた(他の種類のを身に付ける可能性はハナからなかった)のである。
完全に経験だけに依存して学習するというのは、他の先生に付き従っていたら他の論理的概念を身に付けた可能性がなければならない。
だから、学校で何かを習う、学校に行く前は持っていなかった知識を卒業後は持っている、というのは、単純な経験説への証拠ではないのだ。

ちなみに、学校へ行かなくても、私たちはある程度の論理的思考をする。つまり、現代の学校で習うのは主に上の 3 でフォーカスされているものである。そして、学校へ行かなくても 2 の意味での論理はある程度(心理学で指摘されるような劇的な間違いが時々見られるにせよ)身についている。
しかしこれらのどちらについても、経験だけで身に付けたという証拠はない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

良い問いと悪い問い

とってもとっても基本的で重要なこと。ぜひ心していただければと思います。
難しいことを考える人だけでなく、誰にとっても。

 一、 我々の考える能力は、(最高にとは言わないが)非常に強力である。すなわち、外の世界では成り立たない事柄についてまで考えることができる。

その例として、私たちは、嘘をついたり、間違った文章について批判したり、現実世界にそのモデルがない(だろう)公理から数学を展開したり、後悔したり、できます。

このことを図にすると

この A が私たちの考えられる範囲で B が外の世界 ではなくて

こうです。図の重なっていない黄色い部分が空でない(何かがそこに含まれる)ということです。実のところ、空でないなんてもんじゃなく、めちゃめちゃ詰まってるんです。


私たちは、わからないことについて疑問・問い(question)を立てて、それに答えようとします。日常生活だけでなく科学者の仕事現場でもそれは同じです。
さて、私たちの考える能力がパワフルということは、いろんないろんな問いが自在に作れるということです。しかも現実の世界の在り様なんかまったく無視してです。
日常で遭遇するようなふつうな問い(例えば「リンゴ3個ウチにおいてあって今日リンゴ2個買って帰ったら全部で何個になる?」)だけでなく、はちゃめちゃな問い(例えば「すべては存在しないのではないか?」)も作ることができます。余談ですが、哲学の歴史の一部は、そうしたはちゃめちゃな問いに答えようとしてきた節があります。
私たちに作ることが可能な問いがいかに多様かについては、あなた自身が疑問文を作れる能力について振り返ればすぐわかってもらえるでしょう。疑問文、自由自在に作れますね。もう1つ作って、もう1つ別の・・・とお願いされても全然困らないですね。

さらに、疑問文を作る上で千両役者なのが、「なぜ」"why" という語です。これを付ければ、なんでも重要っぽい疑問になります。しかも、はい/いいえで答えられる疑問ではなく、かなり深めな感じの。
なので、科学者、哲学者、宗教家、思想家、一般人を問わず、「なぜ」が多くの人を魅了してきました。


では、私たちはそのように多様で大量な(実のところ無限個の)問いを立てることができるのですが、それらの問い全部の答えを得られるのでしょうか?

続きを読む "良い問いと悪い問い"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

土つきの積み木

多くの人の理解は、土つきの積み木で作った城である。

そう、渡された積み木の土は洗ってから積むほうがよい。

そのほうが綺麗で頑丈な城ができる。雨が降っても崩れない。

しかし、洗いすぎてもいけない。木がなくなってしまう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

アンケート調査は認知科学の研究にはなりえない?

なぜアンケート調査は認知科学の研究にはならないのか?

蒼龍さんは興味深いことを沢山書いてらっしゃいますが、残念ながら、これは大きな誤り。その理由はこちら
たぶん目を通した文献の偏りによるものでしょう。かく云う私も偏ってますがね。


続きを読む "アンケート調査は認知科学の研究にはなりえない?"

| | コメント (2) | トラックバック (0)

ロボット、人、こころ

学会レポ

日心シンポにて、岡ノ谷さんは私とまったく同じことをおっしゃってましたな。
しかも彼はマジでこれを追究しようというのだから(そのように聞こえました)、肝が据わってます。

岡ノ谷さんは、その経歴上自然かもしれませんが、ミラーシステムをキー構成素として入れていました。思い入れがあるのでしょう。
対して、私の説は、ミラーニューロンにこだわりミラーシステムが関わらなければならないと限定する必要性は無い、というスタンスで論じています。私の説のほうが一般的だと言えるのかもしれません。
いまのところ抽象的「ミラーシステム」の必要十分条件が不明なので、さらに踏み込んでそれが要る要らないを議論することができません。
視野が違うのかもしれませんね。私の場合は人間学ではないですから。


それにしても、石黒さんが自己意識を拒否してきたのには驚きました。
私は、彼は工学者なので、そのあたりのことにはコミットしないという距離をおいた立場なのかと思っていましたが、やはり年をとると突っ込んでいきたくなるのもなのでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ジョンのLove

たまにこういうネタ書くんですなあ・・・

知ってる人は知っている Century Lovers という曲の歌詞に

愛とは―愛されたいと願うこと

というフレーズがあります。タイトルのとおり、これ自体も引用なんですが。

この定義でどこまで行けるか、考えてみましょう!Everybody, say fu-fu !!

 

いわゆる、再帰的定義に見えますね、これ。
明確化のために、ちょっと補っておきましょう。(暗にここがポイントなんですが)

Love(x, y) := Hope(x, Love(y, x))     ・・・ (1)

こうなりました。
すると、Hopeに何か制限がないかぎり、いわゆる無限高次の命題的態度となります。すなわち、

Hope(x, Love(y, x)) = Hope(x, Hope(y, Love(x, y))) = Hope(x, Hope(y, Hope(x, Love(y, x)))) = ...

これをこのまま受け入れるという道も論理的にはあるんでしょうが、
人間にはこの(静的)表象は無理なもんで、
Hopeに限界(あるいは終了条件)を設け、この無限再帰を回避する道を考えてみる。
例えば、人は三次までのHopeしか表象できないとすると、

Love(x, y) := Hope(3, x, Hope(2, y, Hope(1, x, Loove(y, x))))

として、Loove という Love とは異なるプリミティブ愛みたいなものを導入することに・・・。

※ いわゆる相互顕在性というやつが、どっちを意味したいのかはわからない。定義をそのまま受け取ると無限再帰のように見えるが、認知的限界に言及しているからなあ。

さてここで、もう1つ打開策として、推論的表象を考えてみる。
推論的表象と呼ぶのが適当なのかどうかは定かではないが、ここで意味したいことは、
推論手続きと原初的定義だけが表象されていて、それを組み合わせてできるものは
必要となったその場で構成される、というものだ。(いつ必要になるんじゃい!)
上に対比して動的な表象と呼ぶのがいいのかもしれない。

この場合に適用すると、上の(1)と、再帰適用の規則だけを持っていて、後は考えていない、と。
つまり、どんどん回帰していくことは、やろうと思えばできるけど、やっていない。

でもこれは、言い換えれば、静的に把握されていない、さらに言い換えれば、それが意味することを完全にわかってはいない、ということになる。
つまりこのジョンの定義は、愛とは何かはわからないのだよ、ということを言っているのか。// だから愛を語りつくすことはできないのか?:-)

続きを読む "ジョンのLove"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧