Ε 社会学の諸問題

本を読む理由

私も日々、山ほど本を読んでいるが、身内からすら怪訝な目をされることもある。
私を含めた一群の人たちが、何のためにそんなに本を読んでいるか。理由は大きく2つ。

ひとつは、新しいことを知るため。
こっちの理由で読んでいるときははワクワクする。たのしい。

もうひとつは、批判するため。
こっちは楽しくない。

楽しくないのになぜ読んでるのかって、仕事だからですよ。

我々の仕事では、批判する側がここここでしょって根拠を提示しなければならないルールになっている(これは当然)。
なので、全部読まなければ批判できない。
たまに、その後に筆者が意見を変えた場合とかもあって、それに気づかずにいると現在としては的外れな批判になってしまう。だから、更新を全部チェックしなければならない。
これを怠っている人は結構多い。なにしろ大変な作業だからね。
それどころか、ひとつもその人の作品を読まずに批判している人もいる。これはひどい。
さらにもっとひどいのは、読んだと言っているのに(典型的には引用文献に挙げているのに)それを実際は読んでおらず批評しているケース。学界の実情としてはこれも結構ある。ほんとひどい。

大変だけどやらずに済ませる方法はないのだから、少しでも効率化するシステムができれば、悪行も減ることでしょう。
たとえば、ある人の主張や理論や執筆物の更新を常にトレース・メンテし誰でも簡単に最新にアクセスできるようなシステムがあれば、かなり楽になる。

私一人が作って自分だけ使っていても仕方ないので、大きな改革を要する。

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出版と専門書

一介の物書きの視点から言えば、出版社が担っている仕事は、大きく分けて以下の7つ:

1. アドバイザー
 想定される読者がどんな内容を求めているかやある表現が読者に理解されるかなどの内容に関する助言を行う
2. 校正者
 タイポや漢字のミスなどの校正作業を行う
3. デザイナー
 レイアウトや字体、色彩などのデザインを行う
4. 印刷者
 紙という媒体への印字、接着などによって物体としての本の製造を行う
5. 広告業者
 本の宣伝をし、買いたい人を募る
6. 流通業者
 運輸、店舗など自社の流通網を使って個々の読者へ配送する
7. 売買仲介者
 読者との代金のやりとりを仲介する

出版業界にいらっしゃる方なら超がつく常識でしょうが、読者が本を手に入れるまでにこのような仕事が含まれているということは、本の代金には、執筆者に支払われるお金以外に、これらの仕事すべての料金がちょっとずつ含まれている訳です。

さて、すぐに察していただけるでしょうが、これらの仕事は分業できますし、下請けに出すなど実際にされています。つまり、一社でこれを全部担う必要性はありません。

試しに、これを自分で全部やることを考えてみましょう。
どんな内容を書くかを自分で考え、
原稿ができたら自分で見直して誤字をチェックし、
パソコンを使ってレイアウトや配色を自分で決め、
プリントアウトして市販の製本グッズで留めて本を作り、
本を作ったよと伝えて回り、
話を聞きつけて読みたいと言ってくれた人の家へ原チャリで届け、
そこで代金を受け取る。

・・・全部できますね。
パソコンやプリンタなど家庭向けの機器が発達したおかげで個人でも簡便にできるようになりました。さらに、インターネット時代になって、自分で全部やるのはもっと簡便になりました。地球の反対側にいる人とでも、配送や代金の受け取りを個人でできます。

著者がこれらの仕事の一部を自分でやると、その分の代金も著者に渡ります。さらに著者によっては、その作業分の代金は勉強させてもらいます(サービスさせてもらいます)ということで、本の代金を安くできます。いわゆる「マージン」が発生しなくなるわけです。

これは、読者にとっても著者にとっても嬉しいことです。すると、本来的な売買取引の当人である二者とも幸せなんですから、自然とそうしていく向きに促されるでしょう。
では、実際にそうなっていないのは、どうしてでしょうか?まだそうなっていく途中段階ということなのでしょうか?

昔は、これらの作業を自分でやるのは、作業の専門性、作業量などの理由で、とても大変だったわけです。よって専門の業者に肩代わりしてもらったのです。業者がやる仕事は、自分でやるよりも質、量などの面で「良い」ものであるから、専門家(例えば印刷業者)という仕事が成り立って来ました。現代でもこれは同様で、校正にしてもデザインにしても流通にしても、自分でやるより業者のほうが良いものができるという点があるからこそ、多少本を高くしてでも業者に頼む価値があると思うわけです。

すると、自分でできることと比較しての、上乗せの価値の分が薄れてくると、わざわざ別業者に頼む動機がなくなります。これは潜在的な出版業界の危機です。よって、出版業者は、電子機器がどんどん便利になるこのご時世でも、なんとかして自分たちの仕事の価値を創出せねばなりません。
しかし、そのような生産的な方向ではなく、既得権益を守る方向で動く業者もいるようです。おそらく長続きしないでしょう。

出版業者の仕事は、一般的には、現在でもその価値を広く認められています。
しかし、とりわけ学術的に専門的な書では、価値が薄くなっていっています。

例えば、一般書や啓蒙書ではなく学術的な専門書は、その内容からして、専門家でない編集者がアドバイスすることが難しいものです。
また、専門書の読者(その大部分は専門家)は、デザインをほとんど気にしません。ネット上にレイアウト前のドラフトが公開されていたら、よろこんでそちらを読むような人たちです。極端に言えば、文や図表の内容だけでよい、あるいはWordでできるレイアウト程度でよい、と思ってらっしゃいます。
印刷と流通は、情報通信技術の進歩により、個人で十分まかなえるようになりました。専門書の読者はPDFをダウンロードして読むことに苦はありません。
専門書は、読者層が偏っています。そして、その読者層はインターネットのヘビーユーザに大きく含まれています。よって、広告はウェブページへの掲載と検索でほとんど足ります。パソコンをお使いにならない年配の研究者が引退され若い研究者が増えていくので、この傾向は今後も進んでいくでしょう。
専門書のうち、糧の中心として書かれるものはほとんどないです。なぜなら大部分の著者は大学や研究所などにその本の執筆を必須の業務とせずに雇用されており、また、専門書でお金儲けをしようと考えている人はまずいないからです。よって、なんなら原稿料はタダでもよいと考えるくらいであり、読者との金銭のやりとりは主眼にありません。
校正は、身の回りの人でできる上に、最近はパソコンが誤記を検出してくれるし、その気になれば校正だけの安価な専門業者もあります。また、ネット上で電子的に配布するのであば、いつでも誤記を訂正して配布し直しできるので、配布前の校正の重要性が印刷物の場合よりも薄れます。

このように、上に挙げた7種の仕事すべてに否定的です。よって、専門書については、出版業者の手を借りる価値がほとんど見いだせません。むしろ、著作権の譲渡やその他の契約による社会的デメリットのほうが大きいでしょう。
いまでも実際に多くの専門書が紙媒体で出版社から販売されて続けていますが、今後は減っていくかもしれません。というのも、それらの専門書の著者の多くはパソコンなどを使ってこれらの作業を自分で行うことを得意としないベテランの研究者たちであり、そして今後多少ともそのような研究者の人口は減少すると思われるからです。

しかし、別の社会文化的な要因が働いて、若手の研究者が一冊何千円もする本を売ることに価値を置いてしまう可能性もあり、そうなると不幸なことに大勢は変化しないでしょう。
例えば、出版社から「売られた」ものだけを業績にカウントするような制度では、そうならざるを得ません。
よって、そうならないように、私たちが新しい研究者の「教育」と制度改革を行うことが望まれます。

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謎のシャンプー

CMの隅に小さく n=224 と書いてあるらしい。全然気づかなかった。

そんな文字を、小さく小さく画面に入れて、一般人向けに、いったい何の意味があるのか。

どうせ入れるなら「参加者224人」のほうがまだいいだろう。


子どもたちよ
わしのめしいた目の代わりに
よく見ておくれ

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メタ教科

昔、K先生のゼミで聞いて以来の封印ネタなのだが、

自由と教育

何を教えるかを教える側が決めている時点で、自由が阻害される。
よってリバタリアンがもし追求するなら、結局、偏りのないメタ教科が必要となるのではないかと私は思っている。
メタ百科事典でもいいけど。

しかしそのようなものは、いったい発育のどの時点で導入可能なのか?
小学1年生に、この世の中にどういう学問や思想があるか全部理解してもらえるよう説明し、選択してもらうのは無理でしょう。
法律的にも、判断能力はないとされているわけだし。
現状では成人に対してすら無理だと思われるが・・・。

結局、developmental systems theory みたいな話になってくる。

するってーと、不可能な理想ではないか。

それなら近似、という話になるかと思うが、どの種の近似であればよいのか。
初等中等教育で偏りを薄めればよいのか?
じゃあ偏り具合はどうやって判定するのか?人口比率か?そんなばかな。

メタメタ教科むずかしいですね。

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法律へのeasy access

毎度おなじみ集中勉強企画ですが、今回の冬期休暇は法律の勉強をしてました。
日本の法律。
これまでは、仕事のからみで知的財産権関係くらいしかちゃんと調べてなかったのですが、今回ほかの分野にも手を出してみました。
しかし、文章表現が意地悪なことこのうえなく・・・。


ところで、法律ってどうしてあんななのでしょう。
専門的な職業が必要になるくらいにしてしまって。
民に守らせるべきものなら、民がわかる言葉で書いてくれるのがまともではないですか?
まあ、理由はわかるんですが・・・。
それはそうとしても、民が自立的に法律を理解できない現状への対応策がほしいです。

それどころか、今の日本の民の大多数は、どんな法律があるのかとか、いまどんな法律が作られたのかとか、それすら知らないんです。
ああ、恐ろしい。
そしてこの恐ろしさにすら気づいていないという、これ。民たち。
さらに恐ろしい。
自分たちが守らないといけないルールが自分の知らないところで作られているんですよ。それでいいんですか。ふつうに近所の友達とゲームやるときに勝手にルール変えられたら、あなた「ちょっとまって」って言うでしょ。
まったくどうして。

議会中継観なさい。つまんないけど。お役人が形式張ったことをうだうだしゃべっているだけ(しかもよく聞き取れない)という自慰的ネットラジオ。でもこれが視聴率ゼロでないのは、上記の恐ろしさに気づいている人が少ないにしても存在しているから。
おすすめできるようなものではない。
だからね、もっとわかりやすいのを作ってほしいわけです。そこに税金つかってほしい。エンターテイメント性はなくてもいいから。NHKでいいから。「NHK法律」いいじゃん。

と、まあ、よくある批評めいたものを書いてしまいましたが、こういう状態が実に長らくありふれすぎているんですから、十番煎じだとしても書きたくもなる。
現状は、代表を信頼することによって表面上もちこたえているように見えるんだけど、もうそういう時代じゃない。別に自分が投票した代議士が自分のところに来て法律の解説してくれるわけじゃないし。みんなが頼りにしてるテレビにも新聞にも全法律のニュースや解説が出るわけじゃないし。
まともに知ろうとおもったら、それこそそれを専門にしなきゃいけないくらいのコストが必要になる。
これがもったいない。解決できるだろ。
料理のレシピなんかどうでもいいからルールを簡単に読めるようにしてくれ。宅配便の再配達指定よりも簡単に問い合わせられるようにしてくれ。強制的にゲームに参加させられてるんだから。しかも、やろうと思えばできるじゃん、そんなに難しくなく。
それをやらないのは、法律屋が自分の手でおまんま食い上げになるようなことしたくないからか?

でも、余談だけど、いくら国民投票が簡単にできるインフラが整ってきたとはいっても、それはあと数百年はすべきでないと私は思う。

紳助さん、ゲストよりも、もう少し法律のほうにつっこんであげたほうが民のためだ。でも局の意向がある。
だから、法律につっこんだほうが視聴率が高くなるようにすればいい。それはこれを読んでいるあなた、一庶民の仕事。
あなた自身じゃないよ、あなたの子供に教えるのよ。

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礼儀正しさ

礼儀正しさとは何か。

礼とは本来、マナー(エチケット)のことであり、尊びではない。
そして、私も多少 Confucius を勉強したが(それ以前に私の育った文化自体が多大な影響を受けているが)、後に行動様式だけでなく道徳規範も指すようになったようだ。

ところで、このマナーというのは(道徳規範も含めてもよいが)、普遍のものではない。ある行為が、ある人にとっては礼儀正しい行いであり、別の人にとってはそうではない行いだと見なされることもある。よく引き合いに出される例はゲップとか。特に、同じ共同体で暮らす者の間ですら観念が多様化している現代では、そのような食い違いは日常茶飯事で見つけることができる。
そしてこういうマナーみたいなissueで問題になるのは(他のissueではそうではないこともあるのだが)、そこに多様性が生まれたときに、どちらがよりよいなどという決着が付けられないことがあることだ。まあ、大抵そうだ。
そうすると、どういう行動様式をとるかは個人の裁量で決める以外になくなる。
そして、冷静に考えれば、そういう風に他者が自己判断で採用しているマナーが自分のそれと異なっているとしても、文句は言えないはずである。だって根拠がないもんね。

しかしちょっとここで考え直したいのは、もともと礼儀というのは、相手を不快にさせないための、という目的付きの行動様式なのだ。つまりマインドリーディングだ。他者がどう思うかを予想しなければならない。単に自分で何をするか好きなように決めればよい行動の一種ではない。
ところがどっこい、前述のように多様化しているため、他者がどう思うかを推論するのも一筋縄ではいかなくなっている。だから、これについての確信を持てる推論などあまりできず、結局自分がよいと思う行動様式に近い所に決めるよう傾向づく。(こんな現状なもんで、むしろ「あーこの人は頭が古くて堅いなー」という場合のほうがこの件に関しては楽だ)。
もうひとつ浮かぶ問題は、行動の観察者にとって、意図的配慮をもって(すなわち他者がどう思うか予想して)その行動をしているのかそうでないのかの弁別がますます難しくなっていることである。
つまりは、「遠慮は無沙汰」みたいなことである。

さて、最初の問いに戻るが、礼儀正しさとはどう決めればよいのだろうか。

1) シンプルに考えて、自分が礼儀だと思う行動様式に則っているかどうか。個人的。
ここで「礼儀だと思う」は、「他者を不快にさせない等の目的のために自分が従うべきだと考える」の意である。
この「礼儀だと思う行動様式」が a)「誰に対しても同じ」ものであるか、b)「相手によって変わる」か、のバージョンがある。そしてもうひとつバージョン分けがあって、I)どんな場合でも「他者を不快にさせない等の目的」達成の妨げになっていない(と考えている)ことが基準だ、というものと、II)ある条件の下では行動がその目的達成に不利に働くと考えていても「礼儀正しくない」とはならない、というものである。
I)は融通がきかない。みんな人生の最優先の目的を「他者を不快にさせない等」にしなければ「礼儀正しく」なれない。「こういう場面ではそこまでしなくとも・・・」は存在しない。ということでおそらく大多数の人は礼儀正しくない。
しかし、穏健な案に思える II)では、ほぼすべての人は自分がそうするのが最善だと思っていることをするであろうから(合理性の仮定)、ほぼすべての人が礼儀正しいことになる。

2) 多くの人が礼儀だと思っていることの共通部分(積集合)が「真の」礼義であり、それに則っているかどうか。
ところが、ますます多様化する社会では、全員の共通部分がなくなるどころか、多数派の共通部分もなくなる(あるいは複数できる)こともあり得る。そうすると、その社会では誰も礼儀正しくなくなる。

3) 礼儀の目的が「相手を不快にさせないこと、円滑に進めること、etc.」であるとして、そうできていれば結果主義的に「礼儀正しい」。つまり事前の予想は関係ない。
しかしこれでは、一般に「マナー」が含意するような「予め定まった様式」は意味がなくなる。

4) 礼儀の目的など忘れ去って、単に歴史的なあるいは古くから有る様式に従っているかどうかだとする。その行動をとることで全員が(本人すら)ムカついていても、昔のやり方に従っていれば「礼儀正しい」。これだと、慣例などの語との区別は、「もともとはその行動様式の目的は相手を不快にさせないことだったのよ」という歴史的背景によってのみで可能となる。

他にも候補があるかもしれないが、まあ、よくわからない。

というか、私に騙されないようにしていただきたいのだが、こいつの定義を決めようとすることは、そもそも礼儀の目的(と仮定されているもの)のための必要な手段ではない。上のような定義の試みあるいは礼儀正しいかどうかを判定する基準づくりは、おそらくまずもって他者が行動者を評価するために要求されているものであろう。そしてそのこと(他者による礼儀正しさの判断)は当の行動者にとっては本来の目的とは関係のないことである(別の目的(たとえば短絡的な評価しかしない第三者から高い評価を受けたい)においては重要かもしれないが)。
もちろん、上記の「他者を不快にさせない等の目的」のさらに上位目的があって、そのために要されるという考えがありえる。が、それはこの記事では下記にちらっと匂わせるだけにしておく。

ここまでの私の個人的意見からまとめると、

A) 礼儀の目的は人が持つ数ある目的の一つなのだから、必ず最上位に置かなければならない義務などないし、それが行動評価において優先事項として崇められるのは冷静でないというか、感情的だ。それでは効を失する可能性がある。それよりも優先すべきことは世の中にたくさんある。

B) 礼儀と尊びに必然的な一対一の結びつきはない。しかしこの社会では尊敬している場合にもいわゆる礼儀正しく振舞うことをする。これはすなわち、原因のひとつであるということ。他にも原因はあり得る。よって発話などを伴わない行動からは尊敬しているのかどうかの判別がつきにくい。

これらからさらにいろいろなことが導かれるのだが、それは書かないでおく。任せます。

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surveyの偏り

本を読んでいてふと思い出した。

以前、学会の休憩時間にTさんとサンプリングのバイアスについて話したことがある(どういう発表を聞いてそういう話題になったのかはよく覚えていない)。

ふつう質問紙調査などをすると、回答拒否者や未回答項目が現れるのが常である。心理学なんかだと、有効回答率が50%もあれば大喜びである(たいていは、リサーチパネルに頼んだりするのではないから)。しかも調査者はそういう予想をした上でどの程度の量配布するかを考えているものだ。

そのとき話題になったのは、何かを調べたいときにこのような偏りをどうすればよいのか、という点である。回答するかしないかが当該の調査内容に無関係であれば問題は深刻ではないだろう。しかし、化学反応の検証や動物実験ならともかく、質問紙調査などでは欠損するかどうかと測定内容(質問されていること)に連関がないと考えられる場合なんてほとんどない。
有名な例では、ルーズベルトとランドンの大統領選挙の予想が200万件以上の有効回答を得たのに外れた事例がある。

これはよく取り上げられる問題なのだが、そのときの談話は、結局このようなバイアス(にもとづく非妥当な結論の導出)を避ける方法があるのか?われわれが知らないだけで、社会調査などの専門家はそういうテクニックをもっているんじゃないのか?という話だった。「よくわかんないね」で終わったのだが。
それ以後、この問題への対応策は未だに知らない。

基本的に、これは人間を対象にしていることから来る方法論的困難だ。もし科学者に、人々に強制的に回答させる権限があるなら、このような問題は比較的軽くなる(それでも無くなりはしないけど)。しかし、そんなのは古代の専制政治ならともかく現代社会では無理だね。

実は、質問紙調査にかぎらず、比較的安定していると考えられている(それゆえ報告でのサンプルサイズが3だったりさえする)精神物理学的なテストや生理的活動の測定でも、同じ問題から逃げられない。実験参加者の選択もこれと同じだから。つまりそういう実験や調査に対して関心のある人だけ心理学者は調べているのだ。

人間科学が一向に進まないのはそのせいか?いや、こんなことを言うと研究者を盲目にしてしまうのでやめておこう。


市民の皆さん、心理学者や教育学者や社会学者はこんな可愛そうな人たちなんです。
市民のためにその身を投げ打って新たな知見を得ようと努力しているのに、他でもないその市民によって(ネガティブな言い方をすれば)研究が邪魔されているのです。ああなんて悲劇的。
こんな哀れな動物に「調査にご協力を」と潤んだ眼差しを向けられたあなた、ぜひ協力してあげてください。

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あるある

このブログは心理学の専門家以外にも読まれているようなので、このところの大事典の問題について、すこし実情をもらしておこうと思う。

心理学者はあんなものははなから信じちゃいない。
思考や社会的認知の研究をしている人は特にだ。
研究会などでダメな例として引き合いに出されていたくらいなんだから(ねえ、Hさん)。私も某所でしゃべったときに挙げてしまったし。
それどころか、Gilovichの教えが普及しすぎているのか、そういう話を聞いたそばから鼻で笑う人もいる。占いや血液型なんかの主題は特に。こちらはこちらでおかしなことになっている。逆の連合ができているのだ。つまり即否定。(似たようなことはいわゆる自然科学者による擬似科学や宗教への批判でも起こっている。)
まあ、こんなに極端ではないとしても、少なくともうちの研究室には、かの番組を見てスーパーへ行って実践しようなんて考える人は一人もいないだろう。
だから、そういう心理学者にとっては、事件は衝撃でもなんでもない。そういうの(番組の内容が事実ではないこと)はよくあることだと思って観ているはずだ。放送メディアとはそういうものだと。(まあ、実験計画がまずいのがスーパーに行かない一番の理由かもしれないが。) この不信心には、どういう種類の番組かはあんまり効いてこない。数少なくマシなのはニュースとNHK教育か。しかしそれらすら疑っている人もいる。これが専門家の俗世界観。

さて、ここまでで終わればいいのだが、そうではないのは毎度のこと。

専門家のこのような態度は表向きなのである。言い換えれば、裏がある。
こんな風に、あの番組はまるきりダメだね、って研究の場なんかでは言っちゃあいるけど、そういう人たちの日常生活をのぞいてみると、番組の占いコーナーを日々観てたり、カフェでの会話で「AB型だから~」とか言ったり、「○○成分配合」とかいう新商品をコンビニで優先的に選んだりしている。
つまり、仕事上と日常生活での信念が乖離しているように見える。
しかしこういう例は「それが真実だと信じている」ということではないだろう。
じゃあなんでかというと、もうある種の文化的なものになっているんじゃないかと私は思う。「おはようございます」みたいなものだ。午前中に同僚と出会って「おはようございます」と言われてほんとに早いかどうかを考える変人は滅多にいまい。「DHAたっぷり」もそれに近いところまできている。(たぶんこんな程度の論考をしている社会学者はすでにいっぱいいることだろう。)
番組の話に戻せば、そういう事実にもとづかない作りこみを容認している向きさえある。それをすることがそんなに悪い社会だと思っていないのだ。だって文化だもの。飲料のCMで「やせます」とか言ってても、「そんなの証拠不十分だろ!」って会社に電話して目くじら立てたりしないのである。
それが大人の専門家である。

そう考えると、あれを非難するのは大人げないことになる。

どうです、大人。

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社会性

社会性(sociality)は難しい。研究テーマに挙げておきながら、ひたすら後回し(長期的目標?)にしているのはそのせいだ。私はいくらかの社会科学者のように軽々しく、楽観的に、手当たり次第に調べるようなことはしない。

ある個体が社会的であるとは、他個体に能動的に干渉すること、あるいはその傾向である。

ここでいう「干渉」が含意するのは、因果的影響を及ぼす、ということ。

(この定義だけであちこちから反論が来そうであるが、まあ私みたいなか弱い鳥は早いとこ撃ち落してください。)

きちんと理解するには、社会化(socialization)と定義を比べてみるのがよい。ついでに社会的云々のあいまい性もわかる。

難しいとは言っても、これが研究テーマなので、考えざるを得ない。私の理論からすればこれを考えずには抱えた難問は解けないと思われる。思考研究は個人内の問題だと思っている人がたくさんいるみたいだが、私にはそうは思えない。とくに人間の意識的思考(感)は、社会性と深くかかわっているように見える。
でも、社会性は、切り口(に見える傷跡)が、たくさんあって、困る。

社会性はやはり個体と群との間の関係的性質の話だ。そうするともっぱらMMDだな。
進化的起源は横においておいて、発達がネックだ。こいつが人間の社会的機能をわかりにくくしている。
受精卵からお年頃まで非社会的環境で育てるなんてとんでもない実験をやればそりゃあ一気に進展するでしょうが、現状不可能だね。
成人だとどうにも決定的な証拠を出すのは難しそうなので、最終的にこの問題にずばっといくためには幼児を対象に調査をする必要があるだろう。それまでに私のスポンサーになってくれるか紹介してくださるかする偉人が現れるとうれしいなぁ。身を粉にして時給6!円で働きますゆえ。

そんな話はともかく、社会性は人間に特有な特徴ではないが、人間の社会性は特徴的なほど複雑である。この複雑性はもちろんインタラクションのたまものであろうが、私の着目する思考と社会性の関係に関しては、それほど複雑である必要があるかは疑問である。まあつまりは、原始的な思考は人間以外もやっていると認めるが、人間的な思考は複雑性のどっか中間地点で発生すると。

私がいつまでもsocioを外さないのはこういう背景。また、認知的側面に関心を持って研究しているのは、それに最初に魅かれたのではなく、他の問題を解くための論理的帰結からである。ようするに出張。上位の関心は他にある。


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社会的規範

昨日の授業で社会的規範social normsの話が出たので、ちらっと書いてみる。

社会的規範とは何か。
ある程度数の人間の行動(とくに社会的行動)に見出された一致性あるいは類似性(につけた呼び名)、といってよいだろうか。
もしこれでOKならば、その主体がどのようにその行動をするに至ったか(どういう理由で選択したか、など)はどうでもよいことになる。ただ複数の個体間に行動の共通性があればよい。この点の話は授業中にも出した。
しかし、そうしてしまうことへの違和感は多くの人が感じるものだろう。無意識にある特定の行動をしているのも、「そうするべきだ」という強い道徳観のもとである行動をしているのも、同じとして扱ってよいのか。つまり、規範と呼ぶべきものは、意識的な自覚が含意されているのではないか、ということだ。どのような行動原因でもよいわけではなく、それを規範として自覚していなければ、「規範がある」とも「規範に従った」とも言えないのではないか。そんな疑念が浮かび上がってくる。
では、(他の行動よりも)ある特定の行動をしたほうがよい、という「価値」で、かつ、それにもとづいた意図的行為をデフォルトでもたらすものを、社会的規範と呼んでみよう。(もしかすると「かつ」のうしろ側はいらないという人がいるかもしれないが、その点の話はまた後にする。)
もしこの後者の社会的規範が正しい定義ならば、授業中に紹介された進化ゲーム理論的アプローチに見られるような行動ベースの分析は、用をなさないことになる。行動でなくその背後の原因(と仮定される内的表象)によって社会的規範があるかないかを選り分けなければならないのだから、行動しか見ない方法論では社会的規範にタッチできない。
そして、この自覚的社会的規範を採用してしまうと、人間以外ではそれについて研究することが困難になるだろう。行動だけ見ていてはいけないのだから。この事情から、研究者が対象と円滑な(と思われる)コミュニケーションをとれるというただその利点のみに依拠して、「社会的規範を持つ」という点の人間の優位性や独自性が語られることになってしまってはいないか。もしかしたら他の生物も社会的規範を持っているかもしれないが、そいつらの(推定上の)自覚を確認する方法を人間が持っていないから、社会的規範を持たないと早とちりで烙印を押されてしまっているのかもしれない。

このジレンマをどう解決すればよいか。いや、実は、社会的規範という言葉をどっちの意味で使うのがよいかを決めて、もう一方に別のテクニカルタームを当てればよいだけなのだが。私としては、やはり後者を社会的規範とするのが無用な混乱を生じなくてよいように思われる。制度論的なアプローチをするにも、こっちのほうが都合がよいと思うし。
でもそうすると、やっぱり、社会性の分析にも意識的自覚が問題になってくるよね。そして、意識なしの社会(と一般に思われているもの)をどう扱うのかという問題とバトルすることになるよね・・・。
意識、自覚、行動選択、これらをどう切り分けてどう扱うか。結局この問題になってしまうのだよ。
で、私の言う「意識の社会的起源」説がでてきてループする、と。

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